昭和50年8月25日 朝の御理解
                                中村良一
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」



昨日、福岡の高橋さんが、お届けをされますのに、昨日一昨日から、合楽の信心が、また、一段とこう変わってきた。そういうことから、おかげの印も、また変わってきた。そういうお届けが、一昨日から昨日にかけて、幾人もおられました。久留米の佐田さん、北野の秋山さん辺りも、やっぱり、昨日、そんなお届けがありました。とにかく、売り上げが変わってきた。もう、思いがけないところから、金があっちこっちから集まってくる。それは、秋山さんのお届けでした。佐田さんも、じゃない、高橋さんも、昨日、お届けをされます中に、十軒ですかね、本店、本社がありますとこは。福岡の駅前の、スターレーンの中に、出してあります、そら立派なお店ですけれども、もう、スターレーンそのものが、もう、抜けになったようなふうで、食堂街の、あっちこっちからもう、みんな止めようというような話があっておるくらいであります。もう、そこだけは、やっぱ、明かりが付いてるんです。ところが親先生、あの御理解を頂いて、昨日一昨日から、とにかく、その店が活気を呈してきた。昨日なんかはもう、本店から、応援に行きましたというほどに賑わったそうです。ね。神の上に、事を、道に落としてしまうということは、ただ、話を聞いて、覚えて帰るというだけじゃない。ね。本当に、親先生が、あぁ言われたから、ほんなこつじゃかと言う様なもんじゃなくてね、もう、いよいよ、時機到来だと言ったような気持でその、受け心を作っていかなければならない。それも、ただ、印だけに終わってはならない。ね。勿論、例えば、昨日一昨日、お話を申しましたように、久留米の石橋先生ですらも、長い間、借金に苦労された。そして、おかげを頂かれたというても、やはり、一年間はかかっておられるようにです。ね。そういう印が、ね。見えて来る、感じられてくる。そこから、信心の、私は、いよいよ、勢いも、いうならば、されるのであります。心の内を改めることが第一ということは、そういう風に改めていかなければならない。勿論こら、改めるということは、自分の生き方とか、あり方とか、思い違いなんかを改めていくということも勿論ですけれども。合楽というところは、不思議な働きがもう、ほんとうに、もうそれこそ、渦巻くように起こっとるです。
八月の三十一日に、大祓い式ですね。大祓い式以来、自動車事故がもう、相次いでるです。いうならね。交通安全のお祓いをして頂いて、お祓いを受けて、交通安全の御神米を、ちゃんとお祭りしておりながら、無くなるというのが本当です。ね。それが、反対に、もう、本当に続いてるです。もう、自動車事故起こさんなら、合楽の信者じゃなかぐらいに続いとるです。しかもね、同じ傾向にあるんです。接触事故があったら続くと言う接触事故です。追突があったら追突事故です。昨日なんかは、子供さんを跳ねたと言うのが二つありました。そこの、合楽食堂の旦那の博之さん。三つになる子供を跳ねた。北野の、あー、福岡の川上さんところの息子が、やはり、子供を跳ねた。そらもう、びっくりして、直ぐ電話がかかってきた。医者に連れて行った。けれども、それがみんな、どういう事かというと、自動車はもう、半分使われんごとなっとっとっちゃ、身体の上には、一つも事故が無いという事です。そこの久保山さんなんかは、もう二回。月次祭の日にお届けがありましたが、あの、福岡から参って見えます、あれは、西原さん。西原さんも事故が二回。私のほうの自動車も、子供達が運転するとが二回。それもやっぱ、あぁやって、金も払わんならんなら、相当金を払わんならんけれども、ここは龍さんが、修繕のほうは受け持って下さいますからね。もう本当に、いうならば、御用して下さるから良いけれども、とても、自動車半分が崩れてしもうとるけん、半分な全部、他から持ってこんならんとと言うのですから、買うた方が安付くくらいな事ですよ。だろうと思うです。けども、丹念に、まぁ、修繕して、また乗られるように。昨日でしたか、また、うちに自動車は、後ろ前がこうひっこんどるですよち言うけん、また、何か、どうかあっとるとでしょう。
昨日、私は、その事を、神様に、ね、こういう時にね、色んな皆さんが思いますけれどもね。どういう事かというとね。昨日私、その事をお願いさせてもらいよりましたら、もう、それこそ、高い、大きな大きな煙突から、もくもくと煙が上がっとるところを頂いた。それこそ、さぞやお月様煙たかろち言うごと、高か煙突です。そらもう、高い高い煙突からもう。だから、まぁ、高いからね、公害はないと思う。大きな害はない。どういうことだと思うですか。その工場が、生き生きとして、活動があっておるということなんです。ね。工場から、もくもくと、言うなら、煙があがっとるとは、その工場が、いうならば、休業しとるとじゃない。休んどるとじゃない。生き生きとした働きがあっておるという印なんです。合楽の場合、そういう意味合いで、良しに付け、あしにつけ、生き生きとした働きが現れておる印なんです。それもね、本当に、神様のおかげをおかげと分からせたいというご一念の現れです。ね。合楽で、お祓いを受けときゃ、ね。例えば、それこそもう、先代からの、例えば、お祓いを、毎年させていただくんですけれども、本当に、皆無というて良いほど、事故がないと言われておった。ね。
先日からは、日田の綾部さんの所の車も、まぁ、居眠り運転でしたけれども、ぴたっとその、横のコンクリートの塀に持ってきて、だいぶん修繕がかかる。北野の宮野さんもそうです。ブレーキがきかんで、止まらんで普通じゃから、(何時ものてえごてなてつを作ってとめた。?)だから、勿論、やっぱ、修繕代が、相当かかるだけの損傷があっておる。ところが、実を言うたら、そういうくらいな事じゃ無いということです。そういう事で分からせて頂くということがね。神様の御守護という事を、どのくらい受けておるかということをです。何かあって見て、初めて分かると言うのです。ね。病気をして見て、健康の有難さが、本当に分かるように、それが、今申しますように、まぁ、事故ですけれども、ほんなら、人体に、どうこうと言うようなことではないけれども、本当言うたらです。例えば、そこの久保山さんなんかは、えー、あれはね、大きな車がありましょう。あれにこちらが正面衝突したちいうのじゃから、ほんなこつならもう、影も形も、人間と車はなかぐらいになったっちゃ仕方がないぐらいな衝突じゃった。但しそれは、なら、合楽教会に、今、そうした、生き生きとした働きがあっておるという印なんだ。だから、そこが分かればおかげなんです。そこが、その根本的なところのおかげが分かればね、有難いのです。私が今日、その事を、もう一つ、今日を限りで、もう、こういうような、いうならば、働きはね、もう止めて頂かんならんようにお願いをしました。それこそ、私がこう言うと、皆さんが戦々恐々で、はぁ、今日、うちの車が、また、事故に合わんなら、もう合楽の信者じゃなかごたる風に言われたから、今日はいっちょ、事故が起きるじゃろというごたるとがおるなら、どんこん出来んからね。ところが、そういう傾向があるんです、合楽には。ね。例えばほんなら、昨日、そういうほんなら、ね。ほんな、小さい子供を跳ねたという事故が二つあるです。
昨日は、熊谷さんのところの、お婆ちゃんの、二十年の式年祭が行われました。みんな、熊谷さん方に集まって、本当に盛大にお祭りがございました。神様にお礼を申させていただいておりましたら、あの、文楽の操り人形ですね。操り人形が、それこそ、もう生きたもののように、所作を作っておるところを頂きました。操り人形、ね。いかにも、魂があるもののように、微妙な動きを見せておるところでした。ね。あぁした御霊のお祭りをさせて貰うと言う様な事はもう、本当に、私は、御霊のお祭りをするたんべんに、本当に取次ぎをさせていただく者の冥利を感ずるんですけれども、本当に、御霊の喜びというものをです、伝わってくるです。
一週間ばっかり前も、福岡の、えー、久留米の佐田さん所のお婆ちゃんのお母さんの、これは、帰幽祭です。まぁ、仏教で言うお立ち日だと。別に、式年ということではなかった。そしたらね、こんなに沢山、あの、もう、生き生きとした花を縛って、そのまま水桶にぽんとつけてあるところを頂いた。ね。だから、どんなに素晴らしい花であっても、こう、くくられて、それが桶の中にあったんでは大した事はないです。それを、良い花からとって、それを、例えば、合楽流なら合楽流、池坊なら池坊にです、生けあげてこそ、初めて、その花が生きてくるんです。あぁいう、例えば、御霊様への奉仕なんかというお祭りなんかというものは、真心込めてなされないけません。そりゃ、それこそもう、もう、真心、これ以上込められまいというぐらいに、お婆ちゃん流のお母さんの事ですから、嫁さんであるところの、佐田の若奥さんも一緒に、それこそ、お婆ちゃんが、お好きであったから、こうであったからと、甘か、辛なを揃えてからの、まぁ、これはお祭りじゃないですから、四時の御祈念に、ただ、私が、ただ、御霊様へご伝達させて貰うて、玉串あげて貰うただけであった。ね。けれども、そういう、いうならば、縛られておる御霊、窮屈な御霊が、ほどかれて、そして、生け上げられるという働きがあるんです。昨日の、熊谷さんのところの場合もそうである。ね。それこそ、私が、御霊様には、ね。願ったり頼んだりするもんじゃない。感謝の念を送るだけなんだという風に、最近申しておりますように、いうならば、死んだものを引っ張ってきてです。舞台の上さん引っ張ってきて、さぁ踊れと言うのと同じ事です。けれどもほんなら、文楽のあやつり人形はそうでしょう。命も無からなければ、もう、あー、何ですけれども、その使い物、使うその人がです、ね。名人であれば、その人形が、いかにも魂があるごとく、所作もすれば、動きも見せるのです。もう、うっとりするような動きを見せます。人間よりも素晴らしいです。人形遣い一つです。それで、私は、その事を、昨日聞いていただいてから、そういう例えば、熊谷さんを中心として、子供さんがたの真心が、このお祭りになったわけなんだけれども、ね。その根本であるところをというお話を、私は、昨日聞いていただいた、あの、外科医の、ね。元祖と言われるお医者さんが、ね。外科医は、ただ、手術をするだけで、それを癒し給うのは神様だと言っておる、その事を聞いていただきました。ね。それが根本なんです。医者は投薬をする。手術をする。けれども、その薬で癒すことは出来ない。その手術で癒すことは出来ない。それを癒す働きは、神様なんだと分からせていただく、ね。今日も、平穏無事で自動車の運転をさせていただいたと。ね。おかげを頂いてという、そのお礼が、今の根本的な、そこのところが分かって、お礼を申し上げるのと、ただ、今日は、売れた売れただけでお礼を言うのと、今日は無事じゃったと言う。だから、有難うというのとは、その根本のところが分かっての、御礼でなからなければいけないという事です、信心は。
八月、あ、御無礼しました、大祓い式は七月でしたかね。七月三十日、七月から、八月にかけて、言うなら、三十日、五十、やんがて二ヶ月の間、例えば、そういう、なら自動車事故なら自動車事故といったような事故が、連続してあっておるということがです。例えば、今日の、私の御祈念によって、今日を境にまた、ストップするというようなです。傾向が生まれてくるとするならです。如何に、神様のご都合であったかという事を、分からせて貰うて、常日頃は、金光大神のお取次ぎの働きが、親先生の祈りが、今日もおかげで、無事であったんだという、芯からの事が分からなければ、神恩報謝の心が湧いてこんのです。ね。
昨日の、日曜ですから、特別奉修委員の方達の御祈念が、御祈念の後に何時もございます。毎、日曜にある、その後の御理解に、こういうような御理解を頂きました。三四日前に、吉井の波多野さんが、親先生もう、本当にもう、二十何年間、毎日毎日お参りをさせて頂いて、毎日、毎日、こんな有難い御理解を頂いて、毎日、今日の御理解は、今日の御理解はと思うて帰らせて頂くけれども、信心のほうは、一向に進まん。相すまん事でございますが、どういう心掛けで、信心に取り組ませていただいたら、おかげになりましょうかというお伺いがあった。波多野さんという方は非常にこの、まぁ、教学的な、女ながらも、方ですから、非常に理屈が多いですね。それで、まぁ、言うなら、理論的にも、自分が分からなければ合点がいかんというようなタイプの方なんです。その事を、私、神様にお願いさせて頂いておりましたらね。遠景の富士山を頂きました。遠くから見る富士山です。ね。もう富士山の姿の素晴らしいこと。ね。四方八方、どこから見ても素晴らしいです。もう、合楽におかげを頂いて、合楽の信心の素晴らしさ、おかげの素晴らしさ。もうどこから見ても素晴らしかと言うておるだけではいけんと言うのです。毎日、毎日、御理解を頂いて、はぁ、本当に有難かった、有難かったと言うておるだけでは駄目だと言うのです。ね。それは、富士山、遠景の富士山を見て、富士山は何時見ても、どこから見ても素晴らしいと言うておるのと同じ事。ね。本気で、その富士山にね。挑戦するというか、その富士山の頂上を目指して、一歩一歩登ろうという気にならなければいけんという事です、信心は。ということはです、修行と言う事です、ね。富士山に登ると言うのですから。信心の、いうならば、いよいよ、有難いものを目指して、それこそ、生神金光大神を目指して、私共は、その生神金光大神へ一歩一歩向かって進んでいくというような生き方です。ね。今日の御理解のように、一二回行って、自分の良いようにするというのじゃなくて、頂いた教えを、本気で、ね。富士山の頂上を目指して歩いていくように、その御教えに、本気で取り組ませていただかなければいけない。
一昨日、ね。これから、いうならば、神様が金庫を開けて、ね。皆が貰いに来るとを、待ってござるような状態だと言うような御理解を頂いて、ね。その代わりに一つ、本気で、豊かな大きな心を作ることに精進しようと。ね。昨日は、そのおかげを頂いたら、ね。おかげを落とさんで済む信心とは、こういう心掛けにならなければならんということを頂いた。ね。三日、その事の御理解について、いわば、続いたわけです。今日は、その御理解を頂いて、もう既に、神様の働きが、めいめいの上に始まっておる。ね。気が付く、付かないは分からないけれども、もう始まっておる。それを、まだ感じきらんでおる、いただききらんでおるという事は、それぞれ、まちまちでしょうけれども、ね。それこそ、今までもう、この店はたたんだほうがようはなかかろうかと思うような、ね。毎月赤字続きの、その店がです。その日からね、活気を呈してきた。しかも、その日は、本店から、わざわざ、応援に行かねばならないような働きがあっておるという事なんです。私は、昨日、その特別奉修委員の方達に、今の、その波多野さんの話をさせて頂いた後に、また、こういう話をさせて頂いた。
昨日、久留米の井上さんがお届けになりました。久留米高等女子何と言ったかね、久留米高校ですかね、今、何ち言うですか。久留米高女と言ったですかね、その当時は、の、何十年前の同窓生の方達が、五十何名、ちょうど、戦時中で修学旅行が出来なかった。それで、皆、よりより、話し合って一つ、もう、今、幾つですか、井上さんが、もう四十歳なら四十歳になられるでしょうか、のような方たちばっかり、五十何名、博多の駅に打ち揃うて、修学旅行に発たれたという事でございます。その五十何名の方が、どうぞ、無事に、まぁ楽しゅう旅行が出来ますように。私は、昨日、その事のニュースが、ラジオで放送されておるのを聞きながら、畑の草をとっておりました。ね。そしてもう、本当に信心を頂いておるということの有難さ、ね。まぁ、井上さんといや、お金も沢山持っておられるし、立派なお家に住んでおられて、しかもご養子ですから、言うなら、井上さんが大将です。どこに、何をしようが、どこに旅行をしようが、ね。誰も文句の言い手のないほどしに恵まれた、いわば、生活をしておられるのですけれども。そげなね、あそこに行こうとか、ここに見げ行こうとかてんなんてんち言うこつは、全然、毛頭考えとらん。もう、そげな事よりも、信心が一番有難いというところになっておるからです。草を取りながら、友達全部が、そら友達、ね。懐かしいことは懐かしいでしょう。楽しいことは楽しいでしょうけれども、その懐かしさよりも、楽しさよりもです、ね。信心に打ち込んでおる自分。信心が段々分かっていきよるということが有難いと、草を取りながら、感じさせていただいたというお届けがありました。皆さん、こういう心の状態になったら、絶対おかげ頂くですよ。おかげ頂いたなら、あれも一丁作ろう。おかげ頂いたら、あげな着物も買おう。一遍、どこにも旅行してみたい。海外旅行も、誰でん行きござるけん、一遍でん行ってみたい。そげな考えのある間は、本当なおかげにはならんです。ね。楽したい為に、おかげ頂きたいと言いよるとと同じことだから。ね。信心がそこまでね、有難いということになったら、私は、今、合楽で起こっておるところのおかげというものは、もう絶対受けらると、私は、昨日、まぁ、特別奉修委員の方達に話した事でした。ね。遠景の富士山を眺めておるだけではいけない。ね。素晴らしいと言うておるだけではいけない。それに、一歩一歩、ね。それに近付いていく、登っていく信心修行の精神が、しかも、こよない楽しいものであり、有難いものであるというところまで、信心を進めていかなければいけません。ね。そらまた、そうならなければ馬鹿らしいです。あの世にも持っていけれるというほどしのものなのですから。ね。この世にも残しておけるというほどしのものを頂く事なのですから。ね。それこそ、土産は、舟にも車にも積めぬほどの神徳を頂いていくということが有難いということです。ね。そういう信心体制というものが、出来させて頂いてです。今、合楽で起きておる、ね。傾向を、例えば、交通事故の人をもってしましたけれども、これは、誰でも、あんまり嬉しくない事なんだけれども。どうして、そういうような事が起こるか。本当にね、さっきから申します、根本的な神様の有難さというものをです。ね。お取次ぎを頂いて、日々、こうやって、おかげを頂いておれば、特別の祈りの中にある、その圏内にある私共であるということを、いよいよ、分からせて頂いて、そこから、今日も無事でありましたとか。おかげで今日も、商売大繁盛のおかげ頂きましたとかという、その根本のところが分かってなければです。「んにゃ、あの医者は上手じゃった。」「あの注射は効いた。」「あの薬は効いた。」そして、おかげ頂きましたというとでは、一つもおかげじゃないでしょうが。それが、ほんなら、神様のみになって御覧なさい。これだけの働きを見せたのにです。「はぁ、あの薬は効いた。」「あの医者は上手じゃった。」はぁ、神様おかげ頂きましたというのでは、おかげを頂きましたという、それが、もう、それこそ、僅かな事になってしまうんです。ね。根本のところの、本当に、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと。この神様のおかげを頂かねばという、そこのところのね、信心が分かって、その御恩恵に対しまつって、神恩報謝の信心生活が出来るということが、神の願いであり、また、私共の願いでも、勿論、なからなければならないという事なんです。だから、痛い思いをしてからでもです、分からせて下さろうとする、それが、所々ではです、ね。腑が良かったつじゃろとか。まぁ、ちょうど腑が悪かったつじゃろかになってしまうです。腑が悪うして事故を起こした。腑が良うして、今日、商いがあった。そういうことではいかんのです。「あの注射は効いた。」「あの医者は上手じゃった。」と言うような事で、そして、おかげ頂きました、全快のおかげ頂いたというようなことじゃいかんです。ね。癒し給うのは、神様だと。その根本に働きを下さるのは神様だという。そこのところの信心が分かっての信心でなからなければならないと言うこと。それには、本気でね、いうならば、修行の精神。そしてもう、何よりもかによりも、ね。信心が一番有難いという、それこそ、井上さんの昨日のお届けじゃないですけれども、ね。そういう心の状態が開けてくるということがです。楽しみの信心をさせて頂かなければなりません。神様の教えを、ただ、自分の良いような、中途半端なところで受け止めて、おかげを頂いたんでは、おかげも、百頂いておっても、五十の御礼しか出来ません。そうでしょうが。ね。それこそ、おかげというのは、氷山の一角です。一切のおかげは、それこそ、どれだけあるじゃらわからんほどのおかげがある。ここのところを分かる信心にならせて貰うてからの、おかげでなからなければならない。ね。そして、いわゆる、今、神様が、立ち上がっておられるというか、いうならば、おかげを示そうとなさる、その神様が、そういう姿勢を、ね。そこに、皆さんの家庭の上で、自分の身の上に、それを感じ取らせていただいて、その働きを受け、おかげを受けて、ね。貧相病のない世界から、また一段とです、ね。真善美の世界、ね。極楽以上の極楽。いうならば、合楽の世界に住まわせていただくようなおかげを頂きたいですね。どうぞ。